Adventure games > ゾーク物語 > 第一章

第一章

1960年代にDEC(Digital Equipment Corporation)がPDP-10という中型コンピュータを開発したことがそもそもの始まりだった。この通称"the 10"は多くの研究設備で使用され、相当量のソフトウェアが作成された(このうちのいくつかは以降のコンピュータ上のシステムと比べてもなお先進的と呼べるものだ)。MITの人工知能研究所は"the 10"用にITS(Incompatible Time-sharing System)というオペレーション・システムを開発した。これはソフトウェアの開発を容易にするものであり、またこのシステムの開発者たちは小規模の知的でフレンドリーなユーザー・グループが登場することを想定していたので全ての仕様は公開された。

1970年頃、ARPAネットが登場する。ARPAネットによって研究者たちは国中の(いや、世界中の)同業者たちと連絡を取り合い、またお互いのコンピュータを利用できるようになった。そう、この古き良き時代にはアクセスに何ら制限はなかったのである。それはネットに接続されたコンピュータがあるか、または特定の電話番号を知っていれば誰でもできることだった。ハッカーの卵達が国中から誕生し、そして彼らはネットが素晴らしい遊び場であることを発見した。特にいくつかの、いかしたスタッフが管理するMITのコンピュータはなんらセキュリティがかかっていない---つまり接続できさえすれば誰でもログインできたのである。

また、ほぼ同じ時期にMUDDLE(後のMDL)という、LISPの流れを汲む言語が開発された。これはLISPを駆逐するほどのものではなかったが、そのユーザー・コミュニティは大いに盛り上がった。このコミュニティの中心となっていたのはMITのProject MAC(現在のLaboratory for Computer Science)、特にDynamic Modelling Group(後のProgramming Technology Division)だった。そしてこのDynamic Modelling Group(以下DM)は著名なゲームのいくつかを作り上げたのである(それだけが業績ではないが)。最初に作られたのは"Maze"というマルチプレイヤーグラフィックゲームである。これはプレイヤーたちが迷路の中でお互いに撃ち合うというもので、プレイヤーたちのスクリーンにはコンピュータ内にいる彼らの分身が見ているであろう迷路の影像がリアルタイムで表示された。Dave Leblingは開発者たちの中でもこのゲームの存在に関して最も責任ある(つまりは、叱られる)立場にあった。

記録によれば、次に作られたのは"Trivia"である(誰が研究所は時間を超えないなんて言ったんだ?)。これは真のキチガイのための「誰がNo.1か?」コンテストだった。TriviaはMazeとは異なりネットワークユーザーがプレイすることができ、その結果ARPAネット上で大人気となったのである。Mark Blankはこのゲームのセカンドバージョンをプログラミングし、私はそれを補修したりハックしたりしていた。この作業は実のところ研究プロジェクト用のデータベース・システムの合理的なテストでもあった。

訳注 : "Trivia"はクイズゲーム。

そして1977年、"Adventure"がARPAネットを席巻した。Don WoodsがWillie Crowtherの作ったオリジナル版を大幅にパワーアップさせ、そして怖いもの知らずのネットワーカーたちの間に放り込んだのである。Adventureを見たMITの面々の行動は皆同じだった。他のことそっちのけでこのゲームで遊んでばかりいたのである(Adventureのおかげでコンピュータ産業の発展は2週間は遅れたはずだ)。そしてみんな半狂乱になってゲームを進める方法を考えていた。AdventureはFORTRANで書かれており、だからもちろんこのゲームはあまり洗練されたものではなかった。たった2単語のコマンドしか受け付けなかったし( 訳注 : OPEN DOOR, GO WEST など動詞と目的語のみで構成されるコマンド以外はだめだったということ )、もちろんゲームの解析は難しかったし、なによりも思い浮かぶ全てのコマンドを試してもうまくいかない箇所がいくつもあることが問題だった。(DMに在籍していたBruce DaanielsがAdventureの最後の難関をクリアするのを見ていたんだけど、彼はマシン語デバッガでゲームを解析していた。他に方法はなかったんだ。)

訳注 : 訳者の知っている範囲内では、AdventureのUNIX版はFreeBSDのパッケージに収録されている。また、 http://www-tjw.stanford.edu/adventure/[archive]にWEB版のAdventureがある。

Adventureが解けたのはその年の5月末だった。そしてDM在籍者たちの面々は新しい娯楽の探究に勤しむようになったのである。Mark Blancはメディカルスクールを休学してのんびりやっていたし、私はマスターコースを終了し、Bruce Danielsは学位論文のテーマに退屈しきっていて、Dave Leblingは深刻なデジタル病にかかっていた。DaveはMUDDLEで構文解析ルーチンを記述した。これは多くの点でAdventureのものよりも洗練されており、Marcと私は、その頃は毎晩のようにハックに勤しんでいたんだけど、このルーチンを改良して4つの部屋を舞台にしたゲームのプロタイプを作り上げた(このゲームはもうずっと前になくしてしまった)。このゲームには楽団と、小劇場と貴賓室(楽団はドアの外で"Hail to the Chief"を演奏している)と『死線まみれの小部屋』が登場する。Daveはこのゲームをテストプレイし、とても怖がってその場を離れ、2週間の日光浴に出かけた。

Marc, Bruce, そして私は本格的なゲームの開発に取り組みはじめた。我々は地図を描き、数々の謎を考え、どうやったらうまくいくのかを長々と議論した。Bruceはこの期に及んで学位に色気を持っており設計ばかりやってプログラム作成を敬遠していたので、Marcと私はDaveの休暇じゅう端末室でZorkの最初のバージョンを作るはめになった。もっともこの時はZorkという名前はまだなかった。"Zork"とはその辺にあるナンセンスな単語である。語源はおそらく"zorch"であり、普通は"zork the fweep"というように動詞として使われる。("Zorch"もまたナンセンスな単語であり、『完全な破壊』を暗示している。) 我々はあるプログラムをシステムにインストールするまでの間、そのプログラムの名前をzorkという単語に絡めることが多かった。

そしてDaveが戻ってくるまでには(多少なりとも)動作するゲームができあがっていた。これはまだAdventureよりもスケールは小さいもので、最終バージョンの半分以下のサイズだったが、すでにシーフ、サイクロプス、トロール、貯水池とダム、家、森、氷河、迷宮などの様々な要素が詰まっていた。謎解きは後のバージョンのものと比べると見劣りした。うまい謎を考えられるようになるまでには結構時間がかかったし、初期の構文解析ルーチンはどのみち複雑なコマンドを受け付けなかった。我々は基本的な箇所から開発した。これは明確な(かつ容易に変更が可能な)理論であり、オブジェクトと動詞と場所との相互関係をうまく処理するものだった。これは構文解析ルーチンを変更しても容易に適用できた。このルーチンの変更はメンバー全員とMarcの伯(叔)父が彼の腕前を試すようになってから頻繁に行われるようになった(Marcはそのうちにルーチンのことばかり考えるようになり、最後の方に作られた40~50のルーチンは全て彼が書いたものだった)。そしてこのルーチンは新しい場所やオブジェクトや動詞を付け加えることが可能だった(ゲームに新しいコンセプトを付け加えることの難しさについて議論したくはないよ)。

ZorkはAdventureと同様、開発者周辺の小さなコミュニティを超えてプレイされたからこそ生き延びたのである。Adventureの場合はFORTRANで書かれていていてほとんど全てのコンピュータでも走らせることができたからだが、Zorkの場合はMUDDLEで書かれていたのでPDP-10の一部でしか走らなかった。MUDDLEのユーザーコミュニティはMITのシステムを荒し回る『net randomたち』の集団だった(当時は全くセキュリティをかけていなかったので問題はないよ、念のため)。DMはTriviaがきっかけとなってこういったコミュニティを大きくしていった。Zorkの開発に伴ってTriviaの更新は停止しており、またrandomたちがするようなことは他にあまりなかったので彼らは新しいゲームを待ち焦がれていた。登場してまだ間が無いにもかかわらず、ZorkはLISPの発明者であるJohn McCarthyからバージニア北部に住む12歳の少年少女たちに至るまでの広い世代にプレイされた。なお我々は彼が地図の代わりに用いた連結表( 訳注 : おそらく『家 -(東)→ 切株』のようにシーンどうしの相関関係を記した表のこと )を入手している。誰かがZorkの宣伝をしたわけではない。彼らはDMのコンピュータにログインして誰かがZorkというプログラムを走らせているのを見て興味を覚えたのだ。それから彼らは誰がZorkを走らせているのかを特定するためにコンソール上を嗅ぎまわり、結果それがAdventure的なゲームであることを突き止めたのだ。それが分かれば、どうやってそのプログラムを実行するのかを知るのにたいした努力は要らない。それから長いこと「:MARC;ZORK」はさながら魔法の呪文だった。ITSもDMもPDP-10も知らない人々がどこからか「ARPAネットの"host 70"というものにログインしてこの魔法の呪文をタイプすればゲームができるよ」ということを聞きつけたのだ。

1977年6月の時点ではZorkは後の「Zork I」に比べるとまだまだ原始的なものだったが、基本的な流れは全く同じである。巨大地下帝国の支配者である超越王Dimit Flatheadを始めとするFlathead一家は既に登場していたし、通貨がzorkmidとであることもも決まっていた。Bruceのおかげで当初意図していた通り文体は絢乱たる散文調になった。

巨大地下帝国の詳細部分のほとんどはバカバカしいものか妙なものだったが、我々は決してリアリティの追求を放棄したわけではなかった。また当時はダンジョンの暗闇をさまよっているとそのうちに底無し穴に落ちてしまうようになっていた。屋根裏部屋の底無し穴は通常の床と区別できるようにすべきだという指摘が多くのプレイヤーから寄せられた。またDaveは恐るべき考えを思いつき、それをシナリオに反映させた。初めて公開された時から(或いは公開されてからちょっと過ぎた頃から、似たようなものだけどね)リビングには"US News & Dungeon Report"誌が置いてあって、これを見ればゲームの更新状況が分かるようになっていた。例えば「Bruceは数週間かけてダンジョンの底無し穴を全部埋めた、その代わりそこいら中に恐怖のタネをばらまいた」とか。

1977年の6月、Marcによって最初の大幅なバージョンアップとして「川」のシーンが追加された。このシーンはZork Iでもほとんど変更されなかったのだが、建物のリアリティに関する問題をしばしば提供してくれた。些細なものとしては、矛盾があるという問題があった。つまり川のある部分は日が照っていて(外から近づくこともできた)、それ以外の部分は真っ暗だったのである。また、大きな問題に関してはMarcの考えた新しいコンセプトである『乗り物』によって解決した。元々は部屋とオブジェクトとプレイヤーがあってプレイヤーはどこかの部屋にいなければならなかった。乗り物は『動く部屋』となりうるオブジェクトとして活用された。この結果動詞とオブジェクトと相互作用(とてもデリケートなものだ)を変えなければならなかった。例えばボートに乗っている時は"walk"という単語の役割を無理の無いものにしなくてはならなかった。加えて手練のZorkプレイヤーたちは考えうる全ての場所でボートを使おうとした。我々はボートを川のシーン以外で使うことは考えていなかったが、プレイヤーたちはボートをぺしゃんこんして貯水池に運び、貯水池を渡ろうとした。結局ボートは貯水池でも使えるようになった。しかしまだ恒常的な問題が残っていた。プレイヤーの頭の中にできた世界を変える要素が何であれ、それはプレイヤーの頭の中にできた世界全てを変えてしまう、ということだ。

Zorkができてからまだ1カ月しか立っていなかったが、それは作者すら驚嘆するものだった。ボートという要素を作っていく過程で『荷物入れ』という概念が生まれたのだ。プレイヤーはこの中に何でも入れて運ぶことができた(それが人間が運べる重さをはるかに超えていたとしても)。ボートは『空気を入れたボート』と『空気を抜いたボート』の二つがあり、プレイヤーは後者しか運ぶことができない。プレイヤーからはまだこのことがバグだという報告は受けていない。私が知るかぎりこのバグはまだ残っているはずなのだが。


コメント(0)


Note

本サイトのハイパーリンクの一部は、オリジナルのサイトが閉鎖してしまったため"Internet archive Wayback Machine"へのリンクとなっています。そのようなリンクにはアイコン[archive]を付与しています。

本サイトはCookieを使用しています。本サイトにおけるCookieは以下の三種類のみであり、Cookieの内容に基づいてサイトの表示を変更する以外の用途には用いておりません。