ピースウイングへの道(1)ビッグアーチとアジア競技大会
- 公開日: 2025/06/21(土) 19:56[JST]
- 更新日: 2025/06/21(土) 19:56[JST]
広島の新サッカースタジアム「エディオンピースウイング広島」ができて1シーズン経った。評判、観客動員なども上々で少なくとも今のところは「作ってよかった」といえる施設だろう。
自分もこのトピックを2008年頃から追っかけており、適宜このブログに投稿してきた。実のところ場所が中央公園芝生広場に決まってからは「あとはなるようになるだろう」と思い興味は半ば薄れていたのだが、後述の通り(自分の目から見た)これまでの経緯をまとめてみたくなった。
ということでまずは旧本拠地であるビッグアーチ(エディオンスタジアム/現ホットスタッフフィールド)の話から。
書いてみようと思った動機
スポーツライターの宇都宮徹壱氏が今年8月からピースウイングの連載記事をスポーツナビで始めるとのことだ。スポーツライターの目から見てサッカースタジアム建設の経緯がどう映ったかというのは非常に興味があるところだが「そんな中、今回の取材で不可欠だったのが、オールフォーヒロシマ(ALL FOR HIROSHIMA)のメンバーだった方々の協力」という点がちょっと引っかかった。
オールフォーヒロシマ とは、2008年から活動していた、サンフレッチェサポーターを中心に結成された勝手連。旧広島市民球場の内野スタンドをそのまま残し、メインスタンドと北側スタンドを新設するというサッカースタジアムを提案していた。
このプランは市の市民球場跡地活用策に呼応するものであり、そのせいか公式ブログでは市を敵視するような主張が度々なされていた。その為、上記の宇都宮氏の連載記事についても「行政に巣食う抵抗勢力に打ち勝ってスタジアムを実現に導いた市民運動とクラブの偉業」という彼らのストーリーに沿って描かれてしまうのではないか、という点がやや心配だ。
無論、彼らの「スタジアムを作ってほしい」という熱意は本物であり、その運動自体は尊重されるべきであると思う。ただ彼ら以外の視点から見たスタジアム建設史もあっていいだろう、という考えから「じゃあ書いてみるか」となった次第。私自身はALL FOR HIROSHIMAやクラブの取った行動については批判的であり、そのような人物の目から見たものであることを理解されたい。
広島アジア競技大会とは
アジア競技大会(以下アジア大会)とはアジア諸国の代表が参加する国際スポーツ競技大会であり、つまりオリンピックのアジア版である。Wikipediaからの引用となるが、第1回は1951年でその後はオリンピックの無い偶数年に開催されている。広島アジア大会は1994年に開催され、首都以外で開催された初のアジア大会となった。日本では他に東京(第3回・1958年)に開催されている。来年の2026年には名古屋での第20回大会の開催が決定しており、現在主会場となる瑞穂競技場の改修が行われている。それ以外では1978年の第8回大会に福岡が立候補していたが落選している[1]。
広島市では政令市に昇格する前の1970年代後半に大規模スポーツ大会の誘致運動が起こり、1980年には市長と知事との会談にてアジア大会の誘致が決定、1984年に正式誘致となった。当初は1990年第7回大会の予定だったがその枠は北京となり次の1994年の大会となった。
建設までの経緯
アジア大会のメイン会場となる広域公園は、元々、後に西風新都と呼ばれる職住近接型の都市開発が計画されていた地域にある。昭和60年の広島市議会第1回2月定例会の議事録によれば、この都市開発は上下水道や交通の未整備を理由に、昭和50年に凍結されていたが、この年から翌年にかけて広域公園の用地取得が行われた。元々土地所有者は三菱グループ[2]だったとのことである。市議会昭和60年予算特別委員会の議事録によれば、広域公園の開発は西風新都の呼び水としての先行投資の意味合いもあったようだ。
おそらくは地所。昭和60年第3回6月定例会の議事録には、このエリアの土地は企業によって買い占められた土地と指摘されている。広域公園の土地は昭和48年頃に元々の地主から三菱に売却された土地とのことである。
昭和60年第3回6月定例会の議事録によれば、広域公園の候補地としては第1次選考の段階では沼田地区,己斐地区,安芸地区,矢野地区の4か所であり、第2次選考時には己斐地区が最優秀であるとされたが、道路事情なども考慮して最終的に沼田地区になったとのことである。
競技場は30000人級の競技場を計画していたが、昭和62年第1回2月定例会の議事録によれば、この頃から規模拡大の検討に着手したとのことである。平成元年12月19日建設委員会によれば、設計・工事は住宅・都市整備公団に委託した。基本設計は昭和62年6月委託・同年8月完成、実施設計は翌63年8月委託、平成元年4月頃に完成とのことである。基本設計委託の頃には5万人級に変わったものと思われる。工事委託額は当初64億(!)その後平成元年11月の入札では不調となり14億増額となった。工事は複数社にて落札され、メインスタンドは大林組が担当することとなった。
その後、荒木武市長は引退、平成3年より平岡敬市長となり彼の元で広域公園の工事は完了、アジア大会実行となる。アジア大会に先駆けて1992年11月にサッカーのアジアカップが開催され、平成4年第6回12月定例会の議事録によれば、8日間で累計17万2000人、決勝戦は50000人の観衆を集めたとのことである。
広域公園までの輸送機関である新交通システムであるアストラムだが、当初は紙屋町(県庁前)-高取間で計画されていたものが昭和61年には高取の先の長楽寺まで、翌62年には紙屋町の先の本通まで1駅分ずつ延伸されることとなった。さらに同年荒木市長は広域公園までの延伸を表明した。平成2年に延伸が決まり、現在の本通-広域公園で建設されることになった。
ワールドカップ誘致
ワールドカップの誘致は全国各都市で1992年には始まっていたが、アジア大会やアストラムなどで財政難に陥りつつあったこともあり当初から広島市は消極的であった。最終的には日韓共催となって試合数が減り、また他都市との競争が激化したことでバックスタンドへの屋根掛けが必須となった[3]。広島市も屋根掛けの設計をしたところ、費用は140億と見積もられ費用対効果に合わないということで屋根掛けは断念、そのままWC誘致も撤退となった。
FIFAの規約としてはWCの競技場は「原則屋根掛け必須」。だが原則屋根なしのアメフトのスタジアムを使った前々回のアメリカ大会はもちろん、前回のフランス大会でも屋根のないスタジアムでも開催されていた。2002年に屋根掛けが必須となったのは(当然屋根付きで進めている)国内他都市を差し置いて屋根なしのスタジアムを当選させるわけにはいかない、という面もあったのではないかと思う。
サンフレッチェ広島の本拠地スタジアムとして
サンフレッチェ広島は県営グラウンドが基準を満たさない[4]こともありビッグアーチを本拠地として使うことになった。しかしながら、Jリーグブームが一段落した後は以下の様々な問題が浮上し、新スタジアムへの要求が高まることになる。
市の中心から離れた位置にあり、ライト層にとっては行きにくい(他の用事のついでにサッカーも、とはなりにくい)
公共交通が輸送力の低いアストラムラインのみである。当時のアストラムラインは大町駅で(単線二両の)可部線に接続するのみで、アストラム沿線以外の郊外に住む住民が公共交通機関でスタジアムに行く場合、いったん紙屋町まで出てアストラムに乗り換えることになるため余計に移動時間が長くなっていた[5]
駐車場が小さい。クラブは臨時駐車場を用意したがそこは西風新都の事業用用地であり、土地が売却されて利用されるようになるたびに駐車場が減っていった。
数万人の観客を裁くには道路が足りない
トイレが和式便器であり、Jリーグの基準を満たさない[6]
2017年以降のACLの基準である「背もたれ付き個席を5000席以上」を満たさない[7]
Jリーグ1年目時点では「15000人以上かつ椅子席が10000席以上。立見席はOKだが芝生席はNG」というもの。
2015年に新白島駅がJR山陽本線、アストラム双方に設置され乗り換えが可能となった
洋式便器が必須となったのは2012年より。2018年に洋式化された
当時のビッグアーチで背もたれ付きだったのはメインスタンドの一部1900席ほど。次回ACL出場となった2019年にバックスタンドの座席交換で対応
影響
アジア大会を始め、荒木市政時代に景気よくお金を使った結果、次代の平岡市政では財政難に直面した。そして平岡市長が2期で引退した1999年には、衆議院から鞍替えした秋葉忠利氏が財政健全化を訴えて選挙戦を勝ち抜き市長となる。
広島市は基本的に自民党地盤。マツダ労組等リベラルの支持基盤もあるが、中選挙区制時代は自民2、社会党1で秋葉氏はこの地盤で衆議院議員を3期務めた(最後の1期は比例復活)。
リベラル系というだけでなく、東京出身のヨソモノである点についても異例の市長であった
投稿を改めて説明するが、秋葉市政3期中にはマツダスタジアムが建ち、また旧市民球場跡地のイベント広場化という道筋を残して市長を引退するなどサッカースタジアム計画に影響を与えた
上記のように、元々アジア大会用でJリーグの本拠地として設計されておらず使い勝手が悪かったことから2000年台以降に何度も新スタジアム計画が立ち上がることになった
一方でWC誘致の際に屋根掛けや道路整備などを積極的に行わなかったことは、皮肉にも新スタジアムへの後押しになった。もしWCに当選できるようスタジアムをアップグレードしていたら新スタジアムは到底認められなかった可能性が高い
評価
アジア大会は都市の身の丈に合わない大イベントであり、明らかにやるべきではなかった。難易度の高いイベント開催を成功に取り付けた関係者の努力は称賛されるべきであるが、だからと言って誘致したこと自体が良しとされるわけではない。それはそれ、これはこれ、である。アジア大会は大金を消費し、大きすぎ・中心から遠すぎで常設イベントには向かないビッグアーチという箱を残してしまった。加えてアストラムを費用対効果の低い[8]エリアまで延伸してしまった。さらに「アストラムを本通まで伸ばした結果紙屋町交差点に地下エリアができた」という理由で地下街シャレオを作ってしまった。
これら荒木市政時に企画されたプロジェクトはいずれも後の世代に禍根を残してしまったといえる(アストラムについては当初計画の県庁前-高取間、或いは長楽寺延伸[9]くらいであればありだったと思う)。一方で、ここで痛い目を見たおかげで行政側もちゃんと費用対効果を考えるようになれたと考えるなら必要悪であったのかもしれない。非常に高い授業料だったが。
アストラムのような新交通やモノレールは「軌道の曲率半径を小さくすることが可能であり、ビルの隙間を縫うように軌道を通すことができる」「道路一車線分の土地があれば複線の軌道を設置できる」というメリットがある反面、「専用軌道なので車道とは必ず立体交差になる(鉄道のように踏切を置けない)」「車幅が短く速度も出ないため鉄道に比べて輸送効率が悪い」「地価の安いところでも高架やすり割りで軌道を設置する必要があるので地価の安い郊外では費用対効果が悪い」というデメリットがある。これらを踏まえると「地下鉄を入れるほどの需要は無いが、それなりに建物の集積が高い地域から郊外の入口くらいまでの短距離路線」に適した形態であるといえる。
長楽寺近辺には車両基地を作る土地があり、そこまで引き込み線を伸ばすならついでに駅を作ってもいいだろう