80年代PC事情
- 公開日: 2024/03/02
- 更新日: 2024/03/16
FM TOWNSの話をするためには、その母体となったビジネス向けPCであるFM-Rシリーズに言及する必要がある。そして、FM-RシリーズはNECのPC-9801VM対抗で設計されたアーキテクチャであるので「如何にしてNECは天下を獲るに至ったのか」についても論ずる必要があるだろうと考えた次第。
TK-80からPC-8001への流れ
NECのワンボードマイコンキットであるTK-80、およびNEC初のパソコンであるPC-8001は、NECの半導体部門の渡邊和也氏がリーダーとなり、アイディアを後藤富雄氏、回路設計を加藤明氏と若手メンバーによって開発された。その時の状況は以下のエッセーやインタビューにて説明されている。
(社)半導体産業人協会 後藤富雄氏エッセイ「日本PC事始」(2006年) その1 マイコンがボードコンピュータであった頃、その2 デバイス屋が創ったNECのパーソナルコンピュータ「PC8001」
これらの記事から自分が重要だと思うトピック以下の通り。
TK-80発売後、秋葉原にアンテナショップBit-INNを開設。渡邊氏以下開発スタッフが交代で店頭に立ち、ユーザからのニーズを吸い上げていた
PC-8001のコンセプトは「ビジネス使用に耐えられる高性能PC」
日立ベーシックマスター、シャープMZ-80Kが先行していたが、これらはマニア向けでありビジネス使用に耐えられるレベルではない
BASIC言語は性能よりも実績を重視してMicrosoft BASICを採用
端末としての使用に耐えられる80桁x25行のテキスト表示能力[1]
フロッピードライブは必須オプションなのでサードパーティー任せにせず自前で純正オプションとして用意する必要がある
PC-8801から9801への流れ
1979年に発売されたPC-8001はヒット商品となり、2年後の1981年には640x200でピクセルごとにカラー8色表示可能、単色ながら640x400の高解像度が可能でオプションの漢字ROMカードを装着すれば日本語テキストも表示可能な[3]PC-8801が登場する。NECはおそらくPC-8001からのフィードバックでBASICの高性能化が必要であると考えたと思われ、Micorosoftと共同開発したN88BASICが採用された。
そして翌1982年に16ビットのPC-9801が登場する。9801自体は半導体部門ではなくオフコンなどを手掛ける情報処理部門によるものなのだが、アドバイザーとして渡邊氏を招へいしておりPC-8001、8801のサポートで吸い上げられていたニーズは9801でも考慮されたものと思われる。その結果として、N88BASICをリバースエンジニアリングして(共同開発者であるMicrosoftが移植に難色を示したので)PC-9801にも採用することとなった。
半角文字であれば8x8ピクセルあれば英数、カタカナ1文字を表現可能。それで80桁x25行を実現するためには640x200ピクセルとなる。漢字を表現するためには16x16ピクセルが必要なので、640x400ピクセルで40桁x25行となる。
その時の富士通
NECから遅れること2年、1981年5月に富士通は初のパソコンであるMicro8(通称FM-8)を投入する。メインCPUはPC-8001やMZ-80で実績のあったザイログZ80ではなく、自社生産していたモトローラ6809を採用した。6809は究極の8bitCPUともいわれ、マルチタスク・マルチユーザが可能なOS-9が動作するほどであった。グラフィックも640x200でピクセルごとにカラー8色が用意された。大河原克行氏の「富士通のパソコン40年間ストーリー【1】第1号マシン「FM-8」の舞台裏によれば、PC-8801はFM-8を見たNECが急遽開発したものとのことである。
FM-8のスペックを見ると、後のFM TOWNSにも共通する富士通らしさが見て取れる。すなわち「高級なコンピュータで実用化されている機能はいずれPCにも実装される(だから他社に先んじて実装すればアドバンテージを獲れる)」ということである。FM-8の特徴としては「BIOS[4]をROMで提供して機械語での開発を容易なものとしたこと、メインCPUの他にグラフィック制御用に6809を別途用意し、グラフィック描画もサブシステムコールで容易に制御できるようにしたことである。今となっては至極当然の機能だが、これを1981年に実装したのがFM-8であった。
それ以外にも、各8ビット4chのA/Dコンバータが標準装備され、またオプションの漢字ROM[5]を追加することで日本語表示も可能であった(解像度が640x200なので40桁x12行となってしまうが)。また、6809と切り替えて使用可能なCPUボードを指すためのコネクタも用意されており、Z80でCP/M-80、8088でCP/M-86というDOSを使うことができた。科学技術、FA、OAなど様々な用途に対応可能な汎用機を目指したPC、というのがFM-8であったといえよう。
翌82年秋にFM-8ユーザからのフィードバックを反映したFM-7とFM-11が登場する。FM-7はFM-8からA/Dコンバータやシリアルポートなど削除したうえでCPUを高速化、PSGシンセサイザーを追加したホビー特化モデルで、高性能ながら定価12万6000円と低価格に設定されたことでヒット商品となった。一方、FM-11はFM-8の欠点であったテキストVRAMの追加[6]を改善するとともに、640x400、16色中8色を2画面という強力なグラフィック(PC-9801は固定8色1画面[7])、MMR[8]の採用による最大1Mバイトのメモリ空間、フロッピーディスクドライブを最大2台内蔵可能なセパレート型の本体(下位モデルのSTはドライブ無し、中位モデルのADと上位モデルのEXは2Dドライブを1つ内蔵)など高性能・高機能を追求したモデルであった。
FM-11はCPUカードスロットを2つ持っており、下位モデルのST、ADでは6809カードのみを実装、最上位モデルのEXでは6809とインテル8088を実装していた。
Basic Input Output Systemの略語。カセットテープ、プリンタ、漢字ROMなどの入出力装置を容易に制御するためのサブルーチン群。後述するディスプレイサブシステムもBIOS経由で制御可能だった。同年発表のIBM-PCもBIOSを採用していることから大型コンピュータメーカーならではの発想なのかもしれない。
拡張カード形式ではなく、マザーボード上にあるソケットにROMチップを直接差し込むというものであった。
FM-8やFM-7ではテキストをグラフィック画面に描画する方式であった。ハードウェアスクロール機能があるためBASICでリストを表示させて編集、という用途であればさほど問題はなかったが、フルスクリーンエディタでソースコードを編集する際に別の行にジャンプする、という処理を行うとグラフィック画面を全画面描画する必要があるため、開発には不向きであった。
次世代機のPC-9801E/Fから2画面になった
Memory Management Registerの略。6809がリニアに扱えるメモリ空間は64kバイトだが、1Mバイトの実メモリから4キロバイトずつ任意に6809の4kバイトx16に割り当てることができる回路。プロセスごとにメモリを別々に割り当てることができるので、マルチタスクOSであるOS-9レベル2を動作させるのに必須であった。
NEC vs 富士通の帰結
ホビー路線のFM-7に対しては、有力な対抗機種がなくFM-7が市場をけん引することになった[9]。一方でFM-11 vs PC-9801についてはPC-9801が勝者となった。この原因は多々あるかと思うが、理由の一つとしてはBASICマシンとしての完成度ではないかと考える。オフコンを導入するには小規模すぎる事業所や工場などではそれぞれの業務に合わせたアプリケーションをソフトハウスや腕に覚えのある従業員が各個に開発する必要があり、BASICの機能の豊富さは重要な評価項目であったと思われる。FM-11は8088機では標準でCP/M-86を用意し先進性をアピールした一方、標準で提供されたF-BASIC4.0は6809用でありまたN88BASICに比べて低機能であった[10]。
しばしば「FMシリーズの16ビット機の展開の失敗はMS-DOSではなくCP/M-86を採用したこと」といわれる。これは必ずしも間違いではないが正確でもない。PC-98の成功はBASICマシンとしてヒットしたことであり、90年代のPC-9821まではDOSはオプションである。初期のキラーソフトとなったワープロソフト「松」も1983年に登場した最初のバージョンは、ゲームソフトなどと同様DOSを介さずに直接アプリケーションディスクから起動するいわゆるBooterであった。その後DOS時代を迎えるにあたりMicrosoftがDOS2のサブセット版のアプリへの無償バンドルを行ったことで一気にMS-DOSが普及した、という形であった。一方FMシリーズは16ビットではDOS(CP/M-86)を標準添付としてしまったので、PC-98でMS-DOSが普及し、MS-DOSアプリが増えた際にその恩恵にあずかれなかった、という面はあったがそもそもDOS普及前に差をつけられていたことが原因である。
なお、FMシリーズも最初のFM-11の時点でMS-DOSはオプションとして提供されている。
シャープX1も高性能機であったが、このころは高価格なうえグラフィックVRAMがオプションであった。キーボード・データレコーダ一体型、グラフィックVRAM標準装備で11万8000円を実現したX1Cを翌83年秋に投入して巻き返しを図ることになる。
FM-11特集号であったソフトバンクのOh!FM誌第2号においても、「どう見ても98のBASICの方が,勝っている。(FM-11のBASICである)V4.0にはラベル[11] が使えない。(中略)リストのローリング(リストを画面上で自由に上下に動かすこと)ができない。(中略)BASICのできには不備が多いというのが事実である」と評されている。また、漢字をBASICのソースに書けるN88BASICに対してF-BASICではできなかった[12]。
BASICは行番号で各ステップの位置を特定するタイプの言語だが、行番号を振りなおすと分岐命令の分岐先も変更しなければならない。ラベル機能は特定の行に任意の名前を付ける機能であり、分岐命令において行番号の代わりにラベルを指定することができた。
F-BASICではJISの漢字コードを直接指定することでしか漢字を描画することができなかった。
その後の展開
ホビー用途に関しては、NECはまず1983年秋に「フロッピー内蔵可能な88」をPC-8801mkIIとして投入し、フロッピー時代のイニシアチブをとることに成功した。そして1985年1月にFM-7を上回るAV機能を持つmkIISR、さらに同年末には廉価版のmkIIFRを投入し、一気に覇権を握ることになる。
一方で富士通は84年5月にFM-77を投入。88mkIIと同様フロッピー内蔵・キーボードセパレートタイプとなったが、ビジネス向けも考慮したのかMMRの採用や640x400の高解像度グラフィック(オプション)を用意した(同様にシャープも標準で640x400、8色の高解像度機X1turboを投入している)。もっと早く「フロッピーを内蔵可能にしただけのFM-7」を出していたらどうなっていたか、とはFMユーザとして思わざるを得ない。
また、そもそもFM-11をFM-7完全上位互換として出していれば、とも思う。当時のパソコンというのはエンドユーザと開発者との敷居が低く、ちょっと前まで素人だったエンドユーザが容易にスーパープログラマに化ける世界であった。テキストVRAMが無いFM-7は開発には不向きで、そういったユーザの為に上位互換機としてFM-11が(可能であれば400ラインモードの無い廉価版が)あれば…
FM-7の欠点としてはキーオフを検知できないことや、グラフィックVRAMをサブCPU経由でしか制御できないこと、サブシステムのROMが大きくサブCPUが使えるプログラム/ワークエリアが5kバイトほどしかないこと[13]などがあり、1985年秋登場のFM77AVではこれらの欠点はすべて解消された[14]のだが、88mkII~SRでのディスアドバンテージを埋めるには至らなかった。
ビジネス機においては8088専用となったFM-11BS、98同様の漢字テキストVRAMを実装し、CPUも80186を採用(後継モデルでは80286採用)したFM-16βを投入するがやはり巻き返すには至らなかった。
ファルコムのゲームデザイナー・プログラマーであった木屋善夫氏もザナドゥ開発時にそこで苦労したと述べている。
そういう点では、AVは当時のPCのトレンドに追従した,ある意味富士通らしくないマシンだったともいえる
ホビー向け16ビット機の登場
1987年にシャープはX68000を、NECはPC-88VAを発売している。
X68000はCPUにモトローラ68000を採用し、アーケードゲーム基板に匹敵するAV機能を備えていた。このようなスペックは当時の8ビットホビー機のユーザにとっては理想的ともいえるものであり、高価であったため出荷台数は決して大きくはなかった(推定16~7万台程度)が、2020年代になってもなお新作ゲームが発売されたり、SoCを使用した復刻機であるX68000 Zが発売されたりと、今もなおマニアを中心に根強い人気を誇っている。
PC-88VAはデファクトスタンダードとなったPC-8801mkIISRと互換性を持ちつつ、CPUを16ビット化し、且つゲーム向けのグラフィック機能を強化したPCである。pc88.gr.jpに記載のスペックによれば、グラフィックは最大で640x400、65536色、2画面(65536色不可)重ね合わせ、30個のスプライト[15]となっている。88VAはX68000と異なり短命(モデルチェンジは翌88年のVA2、VA3の一回のみ)に終わった。
一方でNECは1985年にアナログパレット(4096色中16色)に対応したPC-9801VM、VF、U2[16]を投入し、PC-8801mkIISRやFM77AVと同じヤマハYM2203を搭載したFM音源ボードも発売した(U2は相当品を内蔵)。このうち640kBフロッピーのVF、U2はこの1代限りで終わるが、VM+FM音源ボードの組み合わせ(或いは3.5インチフロッピー版のUV)はホビー機としても使われるようになっていく。そして1989年頃から88にとって代わって標準ホビーPCとなった。
個数が少ないがスプライトのサイズが最大256x256ピクセルと可変。水平表示制限も256ピクセル以内。
VMは1.25MB/640kB両用の5インチフロッピー内蔵モデル[17]、VFは640kBの5インチフロッピー内蔵モデル[18]、U2は640kBの3.5インチフロッピー内蔵モデル[19]。
8インチ外付けフロッピーと組み合わせることを想定したフロッピー無しモデル(VM0)もあった。
PC-9801は歴史的な事情から8インチ由来の1.25MBと5インチ由来の640kBのフロッピーインターフェースが別々に提供されていた。その為、外付けフロッピードライブインターフェースもVMは1.25MB用、それ以外の2機種は640kB用のものが搭載されている。VMは内蔵ドライブのみ1.25MB/640kB両用。
U2はグラフィック画面を1面しか持っていない(U2と初代PC-9801以外は2面持っている)など互換性にやや難があった。
FM-Rの投入
FM-Rシリーズは1987年1月に発売された機種であり、以下の特徴をもつ。
CPUは80286に統一
低解像度(640x400)モデルのR50、ハイレゾ(1120x759)のR60、液晶一体型トランスポータブルモデルのR30の3モデル
FMシリーズの代名詞であったサブCPUを廃止
標準OSはMS-DOS。かな漢字変換エンジンとしてOAK(OASYSかな漢字変換)
標準でJIS、親指シフトの2タイプのキーボードを用意。ワープロとしてFM OASYS[20]も用意。
ベストセラー機であるPC-9801VMを強く意識したマシンである。アーキテクチャー的にはメインメモリを768キロバイト取れるなど最後発のDOSマシンだけあって洗練されていた。しかしちょっと高機能なだけではこれまでにPC-9801が築いた市場を切り崩すには力不足であった。そこで富士通は新規市場の開拓を模索し、教育機関向け市場に着目し、内田洋行などと組んでCAIシステムを売り込んでいた[21]。しかしながら、その市場はPC-9801の牙城を崩すほど強くはなく、NECの覇権はWindowsの普及によってアドバンテージが薄れる1995年頃まで続くことになった。
当時実績のあった法人向けワープロのOASYS100シリーズをそのまま移植したもの。DOS上で動くソフトではなく一種の専用環境であり、ハードディスクのフォーマットもDOSとは互換性がない。
モニタ一体型でFM音源(FM77AVと同じYM2203)とスーパーインポーズ機能を追加したFMR-50Sシリーズも発売されている。