ピースウイングへの道(4)広島という街

スタジアムの話をする前に、広島という都市の特徴や課題についてまとめておきたい。

地理

広島は京阪神と福岡の中間で、どちらからもある程度離れている。その為どちらの経済圏にも属さず独自の経済圏を持っている。とはいえ東西を大都市にに挟まれているため、他の大都市と比べるとその範囲は狭い。仙台が東北地方全域、福岡が九州全域+山口県西部を商圏にできるのに対して、広島の商圏はいわゆる「二山二松」[1]、つまり広島県、島根県、愛媛県及び山口県東部に限定される。

広島は太田川河口のデルタ地帯に形成された都市であり、「三方を山、一方を海に囲まれた」としばしば言われるように、デルタ以外の平地が非常に少ない。つまり中心から離れるほど平地が少なくなるという状態であり、郊外に大規模な住宅地を形成することができず、鉄道の輸送力も低い(編成の車両を増やしたり編成数を増やすだけの需要がない)。ついでにいうと海側も江田島、能美島、似島、宮島と島々にふさがれており実は四方を山に囲まれた土地であり、大規模空港を作る場所もない[2]

このように、商圏が狭い、住宅地に適した土地が少なく人口を増やせない、鉄道も輸送機関として期待できない、というのは広島の都市開発を非常にシビアなものとしている。

軍都から工業都市、支店経済都市へ

江戸時代初期、福島正則によって1キロ四方の大規模な城へと改築された広島城は、その立地、規模故に明治維新後に陸軍の施設として活用された。また、明治期に宇品港が整備された結果、広島は大陸進出のための後方基地として非常に重要な役割を果たすことになり、軍都として発展した。

敗戦後、軍の工廠が民間に払い下げられ[3] 、広島は工業都市として発展した。また、戦中期に確立された中央集権体制は戦後復興にも有用であったことから継続した。広島の後方基地としての適性は支店設置都市としての適性でもあり、広島は支店経済都市としても発展した[4]。とはいえ、1975年に山陽新幹線が全通し東京から博多まで7時間弱で行けるようになり、このころから支店経済都市としての強みは薄れていく。

支店経済都市としては後退したものの、もう一方の柱である工業都市は広島の強みである。製造業は国内他地域や海外でビジネスを行っており、このような企業の本社を多く抱えていることは例えばプロスポーツのスポンサー活動のしやすさにもつながっている。

ギリギリ大都市

広島の都市圏人口は150万人ほど。7大都市圏[5]の中では仙台と並び最小クラスであるが、その下の平成期に政令都市になった岡山、新潟、熊本、静岡、浜松あたりとは大きな差がある[6] 。この規模なので何とかプロ野球も維持できるし、Jリーグクラブもビッグクラブを狙える位置にある。

大都市の強みとはすなわち多様である、多少マイナーな需要にも応えられるということであるが、東名阪や福岡クラスの都市と違い、そのような需要を満たすような設備(スタジアムやアリーナなんかは典型)を民間が勝手に整備してくれることにはあまり期待できず、都市計画は行政主導で行う必要がある。先ほど書いたように広島は土地が少なく都市開発のハードルが高く、開発に関わる市の判断を間違えると致命的な状況となりその後始末に何十年も苦しめられることになる。

実は保守地盤

広島は平和運動や世羅高校校長自殺事件のイメージからか左翼が強い地域と思われがちだが、広島市は基本的に保守地盤である[7]。岸田文雄前総理大臣だって広島市中心部の広島1区で選ばれている。市議会の主流派も自民系だ。この自民会派は一枚岩というわけではなく、複数の会派に分かれ自民党内で主導権争いを続けていた。無所属系(1人会派)議員を長く務めた山口氏康氏[8] の著書「ヒロシマもう一つの顔:地方議会の生態-ある市会議員の報告」によれば、昭和50年頃の市議会は新政クラブ、政友クラブの自民系二会派が議長の座を巡り激しく争っていた。議長を輩出した会派が絶大な権力を持つとのことであり、汚職の下地となっていたとされる[9]

異例の秋葉市政

そんな保守地盤の広島市であったが、1999年から2011年までの3期12年に渡り社会党出身の秋葉忠利氏が市長を務めた。秋葉氏は東京出身、父親は陸軍将校で、リベラルな校風で知られる東京教育大附属高校[10]から東大に進み(数学専攻)そこで修士修了まで進んだのち米MITに留学、そこでPhDを取得している。ニューヨーク市立大、タフツ大で教員を務めたのち、(理数系学科の無い)修道大学に移る。その後衆議院議員を3期務めた後広島市長選に出馬し、当選した。リベラルであるだけでなく、広島との地縁もあまりないという点でも異例の市長であった[11]

秋葉氏の本質は「平和運動家」であろう。政界進出以前の実績としてはタフツ大学時代に企画したアキバ・プロジェクト[12]が有名だ。平和運動を行うにあたり、広島市長という肩書は非常に有用なものだったのだろう。それ故に、保守地盤の中で広島市長であり続けるために市長としての仕事をおろそかにすることはできず、ちゃんと仕事はしていたと思う。

当時の広島市はそれまでのずさんな開発計画から財政難に陥っており[13]、市長に就任した秋葉氏がまず手を付けたのはドーム球場等計画されていた大規模事業の白紙化だった。就任当初に市長に反旗を翻し公然と市長を批判した複数の市幹部がいたようで[14]、幹部職員の更迭なども行ったのではないかと思われる。前述の通り広島は都市計画が難しい土地柄であり、財政難の中市主導できちんと検討した上で最適解を選び続けなければいけなかった。その為の組織づくり、というのが秋葉氏最大の功績だろう。その体制は公認の松井市政にも引き継がれており、マツダスタジアム、ひろしまゲートパーク、そして今回のピースウイングと今のところうまく動いていると言えそうだ。

政治家・秋葉忠利は特に対立陣営を動かすのがうまかった。秋葉市長は(おそらく意図的に)対立陣営が叩きやすい言動を頻繁に行っていた。人間というのはどうしても自分を大きく見せたがるものだが、彼の場合は侮られるような人物像を演じることを躊躇しなかった。「平和運動家」という顔、そしてそこから派生する「お花畑サヨク」というレッテルも、逆に対立陣営を動かすためのツールとしてうまく活用していたように思う。対立陣営は秋葉市長にダメージを与えていたはずが、その行動は結果的に市長が実現しようとする政策を後押しするものとなった。3期目の最後の1年にぶち上げていたオリンピック構想等は典型例[15]。オリンピックなどの大規模イベントを望んでいたのは対立陣営だったのだが、市長が推進するポーズを見せたため対立陣営が反対運動を進め、オリンピック計画を事実上葬り去った上でバトンを次代に渡すことに成功した。

市長選挙においては、2003年はカープ元監督の古葉竹識氏[16]、2007年は元アナウンサー・参議院議員の柏村武昭氏を自民党がぶつけてくるものの、市長として深刻な失点が無くまた自民系会派内での対立もあり3選を果たした。

秋葉氏の後継となった松井一實現市長は自民党の支持で当選したが、官僚出身ということもあり秋葉時代のシステムとも相性が良く、結果として秋葉市政をうまく引継いだといえる。現在4期目と長期政権に入っているがさすがに今期で引退だろう。次はどんなタイプの人物が市長になるのか注目だ。

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