広島新球場:ドーム球場頓挫までの流れ

広島市の議会会議録検索システムを使ってヤード跡地に関する発言を検索し、これまでメディアであまり取り上げられることのなかった平岡市長時代のネタを集めてみました。なお、最近の経緯について取り上げている(まめ)たぬきの雑記さんにトラックバックを打っておきます。

まず、ヤード跡地の話が出てくるのが平成4年。この頃、国鉄清算事業団がヤード跡地の購入を市に持ちかけたようです。これを受けて、市は跡地利用検討委員会を結成し、利用方法についての検討を始めつつ、清算事業団との交渉に入ります。

この検討、なぜか異様に時間がかかり、5年後の平成9年に ようやく一応の結論(ドーム球場)が出ます。その間市議からいろいろ提案がありました(中にはサッカー兼用ドームとか、ツインドームなんて提案もありました)。秋葉現市長の所属政党である社会党(当時)がむしろドーム球場に積極的で、公明党がドームに反対の立場をとっていた、というのがちょっと意外でした。なお、共産党の石川武彦議員によれば(平成 9年第 6回12月定例会−12月18日-05号)、検討委員会は当初から「ドーム球場ありき」で進められていたとのことですが。

その後、「平成10年3月までに購入をしない場合は民間に売却する」と国鉄清算事業団に脅しをかけられたりして、市はようやく重い腰をあげ、土地開発公社を通じてヤード跡地を購入します。

これで一段落、かと思いきや、県庁の移転候補地の一つにヤード跡地が入ります。広島の21世紀を覗る[archive]さんによれば、2001年1月ごろまでは候補地に入っていたようです。さらに、ここで平岡市長は退陣を表明、平成11年の市長選では、最有力とされた大田助役が厚生省スキャンダルに巻き込まれて大幅なイメージダウンとなるなどの偶然もあり、社民党出身の秋葉忠利氏が当選します。この時点ではヤード跡地の利用はドーム球場でほぼ確定していたのですが、秋葉市長の就任後、ドーム球場は「コストがかかりすぎる」との理由で一旦白紙に戻ります。公明党の戸田満議員によれば、就任当初から秋葉市長はドーム球場に否定的だったとのこと(平成11年第 1回 2月定例会−03月02日-03号)。その後、カープと電通がオープン球場の検討を始め(2000年12月)、そのあとの経緯は中国新聞[archive]に書かれている通りです。

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