ピースウイングへの道(2)マツダスタジアム

マツダスタジアムはNPB広島東洋カープの本拠地でありもちろん野球場である。しかし、このスタジアムが日本国内のスポーツビジネスに与えた影響は大きく、また広島市のまちづくり方針の変化にも結びついていると考える。

東広島駅貨物ヤード跡地

現在マツダスタジアムが建っている場所はかつて国鉄の貨物ヤードがあり、東広島駅という名称だった[1]。この駅は(おそらく国鉄末期時代から)現在の広島貨物ターミナル駅への移転が進められており、跡地の売却が検討されていた[2]

この跡地利用については、1987年12月15日の市議会定例会で言及されており、前年度より市は貨物ヤード跡地の購入について国鉄清算事業団と協議を重ねていた。この時点ではまだ巨人人気が安泰であり、また旧市民球場も二階席を増設したばかりであったため新球場の話は出ていない。その後、1988年春から施設撤去工事が始まった[3]。1992年2月27日の2月定例会では自民党所属の児玉光禎議員より当地へのドーム球場建設が提案されている。当時は東京ドームが開場して人気を集めており、また福岡ドームが建設中であった(翌1993年完成)。その後ヤード跡地の検討は続き、1996年になって専門家による調査委員会よりドーム球場の建設を核とする利用計画の提言が出された。用地は市が国鉄清算事業団から買い取って,第三セクターに貸与する方法が望ましいとされた[4]

その後も検討は続くがなかなか結論は出なかったが「平成9年度じゅうに実質的な処分を行うとされている国鉄清算事業団用地については,平成8年12月の閣議決定において地方公共団体との協議が調わない場合は公開競争入札等を含め早期処分を進める」「平成9年度までの取得分に限り,その借入額に対して2%相当額を5年間地方交付税の基準財政需要額に算入される」という事情により[5]、1998年3月に土地開発公社による土地の先行取得を行うこととなった[6]

秋葉市長就任とドーム球場白紙化

とりあえず土地の先行取得を行ったものの、市の財政が悪化を続けていることなどから話は進まないまま1999年に平岡市長は引退、選挙の結果社民党出身の秋葉忠利氏が新市長となった。秋葉市長は就任後、ドーム球場を含む開発プロジェクト[7]の白紙化を行った。カープはこれを好機と見たのか鹿島建設電通西日本と組んで「お金のかからない」スタジアム案の検討を始めた[8]。また、同時期にアメリカの建築士であるダン・ミース氏(当時はセーフコ・フィールド等を設計したnbbj所属)が開閉式の新球場 [archive]を着想し[9]、2001年に秋葉市長に提案している[10]

民間提案の受付とエンティアム

これらの提案を受け、2002年2月に市は正式に民間提案の受付を開始した。広島市サイトによれば [archive]スタジアム案は以下の4つ。

  • 日本鋼管株式会社中国支社によるドーム球場案[11]

  • 五洋建設株式会社中国支店、清水建設株式会社広島支店、株式会社博報堂中国支社、中電技術コンサルタント株式会社による開閉式ドーム「ピースフラワー」[12]

  • 三菱重工業株式会社中国支社、株式会社日建設計大阪、株式会社竹中工務店広島支店による開閉式天然芝球場案[13]

  • WPI(ワールド・プレミア・インベストメンツ)/SPG(サイモン・プロパティ・グループ)/MGS(エム・ジー・エス・ジャパン)、株式会社広島東洋カープ、株式会社電通、株式会社電通西日本、鹿島建設株式会社から構成される「チーム・エンティアム」によるオープンエア天然芝球場を核とする複合商業施設案

最終的にエンティアム案で進めることになったが、エンティアム、特に商業施設を担当するサイモン・プロパティ・グループとの交渉は難航し、最終的に2003年12月に辞退となった。秋葉市長と対立関係にある平野市議のホームページの記事『新球場建設への過去からの思いPart2』 [archive]によれば、サイモン側が後出しで駐車場や道路の設置を求めたことが原因の一因であるようだ。また、一説によればサイモンの本命は大阪の阿倍野再開発であり、そちらが不調となったため、広島からの撤退を希望していたとも。

新球場建設促進会議・新球場建設検討委員会

こうして新球場案はまたしても白紙となったが、経済界などから新球場の要望は強く、それを受けて市は新球場建設促進会議と新球場建設検討委員会を発足させた。これらは2004年11月から翌年3月にかけて開催された。12月28日に開催された新球場建設検討委員会施設部会では、後にマツダスタジアムの設計に関わる環境デザイン研究所会長の仙田満氏[14]が講演を行っている。これが縁となったのか仙田氏は2005年3月15日の新球場建設検討委員会施設部会にて市民球場改修案、市民球場跡地のイベント公園案、カープ提案のヤード跡地新球場の周辺整備案 [archive]を提案している。

仙田氏のヤード跡地案にあるカープ提案スタジアム案は、後のマツダスタジアムの原型ともいうべき形状で、ビジター向けパフォーマンスシートがレフトスタンド側にあることを除けばスタンド配置はほぼ同じである。このスタジアム案を無理やり左右対称にした[15]「カープ提案を基に作成」したデザイン画が2004年12月27日の新球場検察促進会議の資料 [archive]にあり、カープはマツダスタジアムの基本構想を2004年時点でほぼ固めていたことがわかる。

これらの会議の結果を経て、最終的に3万人級のオープンエア球場が提案された。場所については、現地立て替えを基本としつつ困難な場合はヤード跡地移転となった。

ヤード跡地への一本化と新球場設計・技術提案競技

こうして一応は現地建替えとなったものの、実現性に難があり、特に主テナントであるカープが到底納得できるものではなかった[16]こともあり、技術検討の結果ひっくり返って次点であるヤード跡地新設となり、2005年9月16日に正式決定となった[17]。おそらくこれは市としては予定通りの流れだろう。市、およびカープの方針としてはヤード跡地以外ありえないのだが、秋葉市長になって以来議会との対立が激しくなっており、一度当て馬を上げて(市長の言うことには何でも反対する)対立陣営に反対させてから、というプロセスを取る必要があったと考える。

この結果を受けて設計+施工のコンペを行うことになった。どう考えてもカープ案が通るに決まっているのだが、一応他の案も募集して比較しましたよ、というプロセスが必要だったのだろう。施工までのコンペであるため大手ゼネコンと組める所のみの参加となり、以下の5者が応募した[18]

  1. 石本建築事務所/大林組

  2. 安井建築設計事務所/清水建設

  3. 松田平田設計/大成建設

  4. 環境デザイン研究所/鹿島建設

  5. 原広司・アトリエ・ファイ建築研究所/竹中工務店

その後、締め切り前日の2006年2月23日に大成建設は作品を提出せずに辞退、残り4者は締め切り日に作品を提出した[19]。これで決まるかと思いきや、なんと竹中工務店以外の4社が防衛施設庁発注工事の官製談合に絡み指名停止になってしまい失格、竹中案のみのコンペとなってしまった[20]。コンペである以上竹中案が合格ということになってしまったが、これに対してカープが反発。設計のみのコンペで仕切り直しとなった。

日本建築家協会中国支部による現地建替え案

市の方針がヤード跡地新設となった後、2005年10月頃に日本建築家協会中国支部の錦織克雄氏による市民球場建替え案(通称錦織案)が 同支部サイトに公開された [archive]。生憎画像はWeb Archiveでも見ることができないが、外野スタンドを解体してその場所に内野スタンドを新設→グラウンドを新スタンドに合わせて整備→旧内野スタンドを解体して外野スタンドを新設、という仕組みだったと記憶している。

一部の市長に批判的な面々には受けたものの、座席間隔も狭く旧市民球場の焼き直しのような設計であり、個人的には今一つ、そこまでして市民球場の立地にこだわらなくてもという感想だった。

アラップ案

設計コンペを行うことを決めた2006年6月19日に市に提出された(が受諾されなかった)プラン。同月29日には「190億円の広島新球場を探るサイト [archive]」なるサイトが立ち上がり、翌月発売の広島ローカルスポーツ誌「広島アスリートマガジン8月号」にて大々的に取り上げられた。広島市が提示する予算案ではまともなスタジアムは建たない、もっとお金をかけてオフィス等を併設した複合スタジアムとするべき、というものだった。

実はこれに先立つ2006年3月に米オレゴン州ポートランドのローカルサイトで同じデザインのスタジアム案が公表されていた[21]。おそらくはアラップ案とは先のコンペの大成建設案そのものと思われる。

アスリートマガジンの記事には連絡先としてマック・アドバイザーズのメールアドレスと、新橋~浜松町あたりと思われる電話番号が記されている[22]。マック・アドバイザーズの会社サイトを見ると設立は2006年2月とできたばかりの会社である。代表者の荒木正史氏は三菱信託銀行出身ということなので[23]、三菱信託時代の顧客による投資案件だったのだろうか。ドメインの権利が当時と現在とで異なる可能性も否定はできないが、少なくとも2007年9月からこのドメインの所有者は変わっていない [archive]のでアラップ案があった当時もこの会社だろうと判断した。

その後11月には公式プロジェクトサイト [archive]が登場する。サイトの文章が英文直訳調で読みづらい。以前確認したところ、このサイトのドメイン管理者は先に説明した「190億円の広島新球場~」サイトと同一人物であった。

まとめると、経緯は以下の通りとなる。

  • 2005年9月16日: 新球場はヤード跡地に正式決定

  • 2005年11月28日: この日に応募要項 [archive]が決まり、受付を開始する

  • 2005年年末?: 広島市長から在日英国大使館へ海外からの応募を募る文書が送られ、アラップが参加を決める[24]

  • 2005年年末?: クレディスイス・ファーストボストン[25]東京支店よりNGOアーキテクチャーのマイケル・ウィニック氏に「広島新球場への投資を考えているクライアントが設計者を探している」との情報を伝え、オレゴン州ポートランドのアーキテクチャーWと共に参加する[26]

  • 2005年12月16日: この日までに5団体が応募

  • 2006年2月23日: アラップらを設計者とし、大成建設を建設会社とするグループ「アラップ・スポーツ・グループ」が辞退

  • 2006年3月13日: ポートランドのローカルサイトにアラップ案と思われるプランが掲載される。

  • 2006年3月16日: 残る4団体のうち3団体の施工会社が防衛庁談合事件に連座して失格、竹中工務店グループのみでのコンペとなる

  • 2006年3月29日: 竹中案が条件付きで最優秀案となった。

  • 2006年4月25日: 竹中案を採用しないことになり、再度設計のみのコンペを行うことが決まった。

  • 2006年6月16日: 設計コンペの応募要項 [archive]公開

  • 2006年6月19日: アラップ(企業としてのアラップなのか、プロジェクトグループとしてのアラップなのかは不明)、広島市に新球場プランを提出し記者会見を行う。マイケル・ウィニック氏が記者会見に登壇していたようだ[27]

  • 2006年6月23日: アラップ、広島市に上申書提出。プロジェクト代表西氏が広島テレビの「テレビ宣言」金曜討論会に参加

  • 2006年6月29日: 応援サイト「190億円の広島新球場を探るサイト」がオープン

  • 2006年7月25日: アスリートマガジン2006年8月号に特集記事が掲載

  • 2006年11月1日: プロジェクト公式サイトができる

経緯としては、英国大使館経由で不動産投資会社に新球場コンペの話が伝わり英アラップと組んでプロジェクトを開始した。その過程で日本の設計事務所が必要と判断して投資銀行であるクレディスイス・ファーストボストンを介して設計会社を募集、名古屋のNGOアーキテクチャーや松田平田設計事務所が手を挙げた、という形なのだろう。その後、スタジアム案を市に提出することなく辞退となったが、コンペ自体が不調となり、設計のみのコンペとなった時点で、プロジェクトグループがプランを公開した、ということになる。

ただ、アスリートマガジンに掲載された連絡先などを見ると、この時点ではもうアラップ社や大成建設はプロジェクトから離れ、不動産コンサルタントとNGOアーキテクチャー、広島市内の協力者が主体のグループとなったのではないかとも思われる。アラップ社がこの時点でも中心なら英文直訳の公式サイト(海外投資家向けの資料をそのまま流用したのではないだろうか)を、広島ローカルのWeb制作者に依頼するのではなく、自ドメインを使ってもっとしっかりしたものを作るのではないだろうか。公式サイトに連絡先として記載されていたメールアドレスが、Web制作者が管理する別の顧客のドメインのものだとか、大手であるアラップ社が関与しているものとは思えない[28]。このような低予算であることから少なくとも2006年6月以降には実際に投資の募集なども行っておらず実績アピールが主目的だったのではないだろうか。

このプロジェクトをアピールすることで得をするのはローカル設計事務所であるNGOアーキテクチャーであり、彼らが中心となって行われた運動だったのではないかと自分は考えている。

スタジアムは外観はドイツのサッカースタジアム、アリアンツアレナ風で、ビジネス面ではテキサスレンジャーズの旧本拠地・アメリリクエストフィールド(現在はフットボールスタジアムに改装されて名前もChoctaw Stadiumとなっている)に倣いオフィスやスポーツジム、ホテルなどを併設する。プロジェクトはアメリクエストフィールドを成功例とみなしているが、アメリクエストフィールドにせよホテル併設のトロント・ロジャースセンターにせよスポビズ大国である北米で追従者が出てこないあたり成功しているとも思えない。また、類似コンセプトのエンティアムがまとまらなかった経緯を考えると、市にとっては同意できるようなものではないだろうな、と当時から自分は考えていた。

設計コンペと設計・施工

設計コンペは無事行われ、今度こそ順当にカープ案ベースの環境デザイン研究所案が最優秀作品となり、施工会社も名古屋地下鉄談合事件で大手3社が指名停止となる中、入札で五洋建設を中心とするJVに決まった。以降はとんとん拍子で工事は進み、カープは2009年シーズンより新球場改めマツダZoom-Zoomスタジアムをホーム球場とすることになった。

新球場への批判

こうして紆余曲折の上ようやく動き出した新球場であったが、批判もあった。

スポーツライター田辺一球氏

田辺一球氏は当時広島ローカルスポーツ誌であるアスリートマガジンのメインライターであった。かつてはエンティアム案に入れ込んでいたが[29]、エンティアムが撤退となると行政批判に転じた。アスリートマガジンでもアスリート携帯サイトの読者投稿をまとめた"Save My Carp"や巻末コラム「風を詠む」などで盛んに批判、というより言いがかりをつけていた。氏のブログである「破滅のシナリオ広島編」でも盛んに行政批判を行っていた。当時氏がどんなことを言っていたか、そしてそれに対する私の所感については、幣サイトの検索窓に「田辺一球」と入力すれば出てくるので興味があればどうぞ。

2006年頃は氏は著名スポーツライターの二宮清純氏と昵懇であり、二宮氏のニュースメディアであるスポーツコミュニケーションズに倣いスポーツコミュニケーションズ・ウエストを名乗っていた。その後その肩書は無くなり、新球場が順調に進む2008年になるとアスリートのライターから外れ、携帯サイト「広島魂」での活動が中心となった。その後は旧市民球場跡地問題が勃発すると球場保存を訴えて市を批判し、さらに新スタジアム案ではオール・フォー・ヒロシマに参加してやっぱり市を批判していた。現在は個人Webサイト「ひろスポ」での活動が中心となっている。

広島市議平野博昭氏

広島市は保守地盤で市議も自民党が多数派。そんな中社会党/社民党出身にも関わらす3期12年に渡り市長となった秋葉忠利氏は異例の存在であった。それまで計画中であったドーム球場等のプロジェクトをことごとく白紙化したこともあり、議会主流派との対立が進行していた。そんな彼ら自民系議員にとって新球場問題は格好の叩き棒であり、ことあるごとにこの問題で市長を批判していた。市議会については中国新聞の特集「議会のカルテ [archive]」を見るとよいだろう。

市議による市長批判の筆頭格だったのがベテラン市議であった平野博昭氏。氏のサイトに記載のコラム「私の思い [archive]」にて盛んに市長批判を行っていた。平野市議の新球場がらみの投稿や、それに対する当時の私の所感は、田辺一球氏と同様幣サイトの検索窓に「平野市議」等と入力すれば出てくるようにしている。中には私を名指しで批判する記事なども[30]

平野市議は秋葉市長から遅れること4年後の2015年に議員を息子の平野だいすけ 氏に譲って引退。公式サイトも無くなった。

それ以外の批判

それ以外の批判だと市職員濱本康敬氏のサイト(閉鎖済、URLはhttp://hwbb.gyao.ne.jp/hamamoto-pb/)では「新球場は無駄、市民球場を使い続けるべき」という批判があり、また応援団長であった新藤邦則氏は「遠い」とヤード跡地自体を批判していた。総じて熱心な古参のカープファンほど旧市民球場の立地を気に入っており、遠く離れたヤード跡地を嫌っている、という印象だった。また、当時はまだボールパークが日本になかったこともあり旧来のスタジアムの方が良いはず、という先入観もあった。

山陽本線沿線の岩国市に住んでいたことのある私としては、西広島で路面電車に乗り換えて旧市民球場や紙屋町に行くのが面倒で、ヤード跡地への移転は、それに伴う広島駅前地区の再開発への期待感を含め大歓迎であった。また、旧市民球場ではボールパークを実現できるだけの土地がなく、あの場所から移転するのは当然だろうと考えていた。

影響

カープ及び球界への影響

このような紆余曲折を経て実現された新球場。できる前は上記のように「あんな辺鄙なところにスタジアムを作っても集客なんてできるわけがない」「ここは日本、アメリカかぶれのボールパークなんかよりも外野席の大きい甲子園のような球場の方がいい」という否定的な意見もあったが蓋を開けてみれば大盛況となった。旧市民球場時代の年間動員数のピークは最初の日本一となった1979年の140万人。マツダスタジアムはコロナで入場制限のあった2020、2021年を除きこの数字を下回ったことがない。

この観客動員増や、ボールパークであるが故の高収益はカープの経営を改善させた。マツダスタジアムが計画されていた2000年代前半はプロ野球人気が底だった時代。それまで長らくパリーグは親会社依存、セリーグは巨人人気依存が続いていた。しかしプロ野球を持つことで親会社が得る利潤よりも球団に払う損失補填が大きくなり[31]パリーグ球団の親会社にとって球団は重荷になっていった。セリーグにしても、かつては巨人戦は全試合ナイター中継で放映料は一試合当たり1億というのが基本で黙っていても13億が入るという仕組み[32]だったが、Jリーグ開幕など視聴者の嗜好の多様化に伴い視聴率は低下した。特にゼロ年代に入ると巨人最後の切り札だった長嶋監督の引退もあり、セリーグ、特に広島、ヤクルト、横浜の経営は厳しいものとなっていった。2004年に近鉄とオリックスの合併が明るみとなり、ダイエーとロッテの合併も噂され1リーグ制が議論されるようになると、次はカープが消滅するのではないかと不安になるファンも多かった。1リーグ制は楽天の加入により回避されたが。

ボールパークはその流れを一変させた。口火を切ったのは楽天の県営宮城球場リノベーションとそれによる黒字化であった。楽天の球場は設計・施工が鹿島建設であり、2000年頃のカープとの共同研究の成果もフィードバックされていたのではないかと思われる。そして1から作ったボールパークであるマツダスタジアムとそれによるカープの経営改善が続き、他の球団もスタジアムに投資して黒字化を図るようになった。ソフトバンクはダイエー時代に手放した福岡ドームの営業権を買い戻し、ベイスターズもスタジアムの営業権を取得、オリックスは3セクで経営破綻していた大阪ドームを取得した。また、ロッテもマリンスタジアムの指定管理者となった。この結果、各球団の経営は大幅に改善され、1リーグ化などを期待する声は消えてしまった(1リーグ制のメリットである巨人戦の価値が減ったことも大きい)。

広島市政への影響

広島というのはまちづくりの難易度が非常に高い土地だ。三方を山に囲まれておりとにかく使える土地が少ない。その為何を作るにも適地は限られており、失敗したときのダメージは大きい。特に荒木市政時に色々とやらかしてしまった反動で市の財政は悪化し、これ以上の失敗は許されないという状況になっていた。

そんな中での新球場の成功は、カープと共に開発を主導した市にとっても大きな成功体験となっただろう。特に、ボールパークという概念を自分も含めその価値をほとんど理解できていなかった[33]中、旧来の野球ファンからの懐疑論を押し切って遂行し、成功に導いたという点は大きい。この結果、「事前に検討を重ねたうえで市が最適であると判断したプランは、市民からの要望に迎合することなく実行に移す」「最適解を実行するためには多少不義理な行動も厭わない」といったスタンスになっていったように思われる。このスタンスは後の市民球場跡地開発やサッカースタジアム計画にも影響を与えていると考える。

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