ピースウイングへの道(2)マツダスタジアム
- 公開日: 2025/07/02(水) 15:44[JST]
マツダスタジアムはNPB広島東洋カープの本拠地でありもちろん野球場である。しかし、このスタジアムが日本国内のスポーツビジネスに与えた影響は大きく、また広島市のまちづくり方針の変化にも結びついていると考える。
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東広島駅貨物ヤード跡地
現在マツダスタジアムが建っている場所はかつて国鉄の貨物ヤードがあり、東広島駅という名称だった[1]。この駅は(おそらく国鉄末期時代から)現在の広島貨物ターミナル駅への移転が進められており、跡地の売却が検討されていた[2]。
この跡地利用については、1987年12月15日の市議会定例会で言及されており、前年度より市は貨物ヤード跡地の購入について国鉄清算事業団と協議を重ねていた。この時点ではまだ巨人人気が安泰であり、また旧市民球場も二階席を増設したばかりであったため新球場の話は出ていない。その後、1988年春から施設撤去工事が始まった[3]。1992年2月27日の2月定例会では自民党所属の児玉光禎議員より当地へのドーム球場建設が提案されている。当時は東京ドームが開場して人気を集めており、また福岡ドームが建設中であった(翌1993年完成)。その後ヤード跡地の検討は続き、1996年になって専門家による調査委員会よりドーム球場の建設を核とする利用計画の提言が出された。用地は市が国鉄清算事業団から買い取って,第三セクターに貸与する方法が望ましいとされた[4]。
平成2年第3回9月定例会(1991/9/11)
平成8年第3回9月定例会(1993/9/24)
その後も検討は続くがなかなか結論は出なかったが「平成9年度じゅうに実質的な処分を行うとされている国鉄清算事業団用地については,平成8年12月の閣議決定において地方公共団体との協議が調わない場合は公開競争入札等を含め早期処分を進める」「平成9年度までの取得分に限り,その借入額に対して2%相当額を5年間地方交付税の基準財政需要額に算入される」という事情により[5]、1998年3月に土地開発公社による土地の先行取得を行うこととなった[6]。
平成9年第6回12月定例会(12/11)
広島市サイト「貨物ヤード跡地とは」
秋葉市長就任とドーム球場白紙化
とりあえず土地の先行取得を行ったものの、市の財政が悪化を続けていることなどから話は進まないまま1999年に平岡市長は引退、選挙の結果社民党出身の秋葉忠利氏が新市長となった。秋葉市長は就任後、ドーム球場を含む開発プロジェクト[7]の白紙化を行った。カープはこれを好機と見たのか鹿島建設、電通西日本と組んで「お金のかからない」スタジアム案の検討を始めた[8]。また、同時期にアメリカの建築士であるダン・ミース氏(当時はセーフコ・フィールド等を設計したnbbj所属)が開閉式の新球場 を着想し[9]、2001年に秋葉市長に提案している[10]。
ドーム球場以外だとアストラム東西線(西広島-広島駅)、南北線(本通-宇品)構想とか。
鹿島はサンフランシスコのAT&Tパークの建設に参画しており、最新のMLBスタジアムに関わったゼネコンである。
ミース氏はさいたまスーパーアリーナの設計にも関わっており、日本側の日建設計や三菱重工などからヤード跡地について聞いたのでないかと思われる。ミース氏の作品集である「SPECTATOR | SELECTED WORKS BY DAN MEIS, NBBJ SPORTS AND ENTERTAINMENT」に掲載されている新球場案のラフスケッチは西新宿のパークハイアット東京のメモ用紙に描かれたものである。
↑の作品集の編者コメントによればミース氏は「outside in」型つまり「見た目から入る」タイプの設計者であるようで、この新球場案も実用性としては?が付く。フェアグラウンドを完全な扇形として描いており、野球場の形ではなかったり。
民間提案の受付とエンティアム
これらの提案を受け、2002年2月に市は正式に民間提案の受付を開始した。広島市サイトによれば スタジアム案は以下の4つ。
日本鋼管株式会社中国支社によるドーム球場案[11]
五洋建設株式会社中国支店、清水建設株式会社広島支店、株式会社博報堂中国支社、中電技術コンサルタント株式会社による開閉式ドーム「ピースフラワー」[12]
三菱重工業株式会社中国支社、株式会社日建設計大阪、株式会社竹中工務店広島支店による開閉式天然芝球場案[13]
WPI(ワールド・プレミア・インベストメンツ)/SPG(サイモン・プロパティ・グループ)/MGS(エム・ジー・エス・ジャパン)、株式会社広島東洋カープ、株式会社電通、株式会社電通西日本、鹿島建設株式会社から構成される「チーム・エンティアム」によるオープンエア天然芝球場を核とする複合商業施設案
同年5月に「事業主体として事業へ参画することを企図したものではなく、評価の対象から除外して欲しい。」旨の申し入れ
人工芝でJリーグが人工芝OKになったらJリーグでも使うことを提案。屋根は後にできたアトランタのメルセデス・ベンツスタジアムのように絞り状に開閉するもの。
三菱重工はミルウォーキーのミラーパークの屋根を担当した。ミラーパークの設計もnbbjでダン・ミース氏と関わりがある。また、かつて市サイトにあったページ にあった画像(今はアーカイブにも残っていない)はセーフコ・フィールドの模型であり、その出所を考えるとこの提案にミース氏が関わっていた可能性は高い。
最終的にエンティアム案で進めることになったが、エンティアム、特に商業施設を担当するサイモン・プロパティ・グループとの交渉は難航し、最終的に2003年12月に辞退となった。秋葉市長と対立関係にある平野市議のホームページの記事『新球場建設への過去からの思いPart2』 によれば、サイモン側が後出しで駐車場や道路の設置を求めたことが原因の一因であるようだ。また、一説によればサイモンの本命は大阪の阿倍野再開発であり、そちらが不調となったため、広島からの撤退を希望していたとも。
新球場建設促進会議・新球場建設検討委員会
こうして新球場案はまたしても白紙となったが、経済界などから新球場の要望は強く、それを受けて市は新球場建設促進会議と新球場建設検討委員会を発足させた。これらは2004年11月から翌年3月にかけて開催された。12月28日に開催された新球場建設検討委員会施設部会では、後にマツダスタジアムの設計に関わる環境デザイン研究所会長の仙田満氏[14]が講演を行っている。これが縁となったのか仙田氏は2005年3月15日の新球場建設検討委員会施設部会にて市民球場改修案、市民球場跡地のイベント公園案、カープ提案のヤード跡地新球場の周辺整備案 を提案している。
仙田氏のヤード跡地案にあるカープ提案スタジアム案は、後のマツダスタジアムの原型ともいうべき形状で、ビジター向けパフォーマンスシートがレフトスタンド側にあることを除けばスタンド配置はほぼ同じである。このスタジアム案を無理やり左右対称にした[15]「カープ提案を基に作成」したデザイン画が2004年12月27日の新球場検察促進会議の資料 にあり、カープはマツダスタジアムの基本構想を2004年時点でほぼ固めていたことがわかる。
当時は仙田氏は東工大の教授であったため環境デザイン研究所の経営からは(公的には)外れている。
右中間が狭く左中間が広い左右非対称のグラウンドを、ライト側を鏡面コピーして左右対称にしたため右中間・左中間共に狭い不自然な形状となっている。
これらの会議の結果を経て、最終的に3万人級のオープンエア球場が提案された。場所については、現地立て替えを基本としつつ困難な場合はヤード跡地移転となった。
ヤード跡地への一本化と新球場設計・技術提案競技
こうして一応は現地建替えとなったものの、実現性に難があり、特に主テナントであるカープが到底納得できるものではなかった[16]こともあり、技術検討の結果2005年9月に次点であるヤード跡地新設とひっくり返った[17]。おそらくこれは市としては予定通りの流れだろう。市、およびカープの方針としてはヤード跡地以外ありえないのだが、秋葉市長になって以来議会との対立が激しくなっており、一度当て馬を上げて(市長の言うことには何でも反対する)対立陣営に反対させてから、というプロセスを取る必要があったと考える。
カープが望むのは客単価を大きくとれるスタジアムである。客単価を上げるには座席間隔を広く取り、また多様な座席を配置するために動線を複雑にする必要がある。このため、大きな敷地面積が必要となり、現地建て替えではカープの希望を満足するだけのスタジアムは不可能といってよい。
広島市サイト「新球場建設の推進 」
この結果を受けて設計+施工のコンペを行うことになった。どう考えてもカープ案が通るに決まっているのだが、一応他の案も募集して比較しましたよ、というプロセスが必要だったのだろう。施工までのコンペであるため大手ゼネコンと組める所のみの参加となり、以下の5者が応募した[18]。
石本建築事務所/大林組
安井建築設計事務所/清水建設
松田平田設計/大成建設
環境デザイン研究所/鹿島建設
原広司・アトリエ・ファイ建築研究所/竹中工務店
これで決まるかと思いきや、なんと竹中工務店以外の4社が防衛施設庁発注工事の官製談合に絡み指名停止になってしまい失格(大成建設は失格になる前に辞退)、竹中案のみのコンペとなってしまった[19]。コンペである以上竹中案が合格ということになってしまったが、これに対してカープが反発。設計のみのコンペで仕切り直しとなった。
2006年4月25日付中国新聞サイト「広島新球場 市、竹中案採用せず 」
日本建築家協会中国支部による現地建替え案
市の方針がヤード跡地新設となった後、2005年10月頃に日本建築家協会中国支部の錦織克雄氏による市民球場建替え案(通称錦織案)が 同支部サイトに公開された 。生憎画像はWeb Archiveでも見ることができないが、外野スタンドを解体してその場所に内野スタンドを新設→グラウンドを新スタンドに合わせて整備→旧内野スタンドを解体して外野スタンドを新設、という仕組みだったと記憶している。
一部の市長に批判的な面々には受けたものの、座席間隔も狭く旧市民球場の焼き直しのような設計であり、個人的には今一つ、そこまでして市民球場の立地にこだわらなくてもという感想だった。
アラップ案
設計コンペを行うことを決めた2006年6月19日に市に提出された(が受諾されなかった)プラン。同月29日には「190億円の広島新球場を探るサイト 」なるサイトが立ち上がり、翌月発売の広島ローカルスポーツ誌「広島アスリートマガジン8月号」にて大々的に取り上げられた。広島市が提示する予算案ではまともなスタジアムは建たない、もっとお金をかけてオフィス等を併設した複合スタジアムとするべき、というものだった。
実はこれに先立つ2006年3月に米オレゴン州ポートランドのローカルサイトで同じデザインのスタジアム案が公表されていた[20]。おそらくはアラップ案とは先のコンペの大成建設案そのものと思われる。同サイトの内容などから判断するに、イギリスの大手設計会社アラップの名を冠しているものの実態としては名古屋のNGOアーキテクチャーとポートランドのArchitecture Wがメインの設計者であったようだ。
アスリートマガジンの記事には連絡先としてマック・アドバイザーズのメールアドレスが記されている。会社サイトを見ると設立は2006年2月とできたばかりの会社である。代表者の荒木正史氏は三菱信託銀行出身ということなので[21]、三菱信託時代の顧客による投資案件だったのだろうか。ドメインの権利が当時と現在とで異なる可能性も否定はできないが、少なくとも2007年9月からこのドメインの所有者は変わっていない のでアラップ案があった当時もこの会社だろうと判断した。
その後2007年には公式プロジェクトサイト が登場する。サイトの文章がいかにもな英文直訳調で読みづらい。以前確認したところ、このサイトのドメイン管理者は先に説明した「190億円の広島新球場~」サイトと同一人物であった。
スタジアムは外観はドイツのサッカースタジアム、アリアンツアレナ風で、ビジネス面ではテキサスレンジャーズの旧本拠地・アメリリクエストフィールド(現在はフットボールスタジアムに改装されて名前もChoctaw Stadiumとなっている)に倣いオフィスやスポーツジム、ホテルなどを併設する。類似コンセプトのエンティアムがまとまらなかった経緯を考えると、市にとっては同意できるようなものではないだろうな、と当時からそう考えていた。